意思の自由

Soul Psychology Philosophy Woman  - geralt / Pixabay

ある行動に対して道徳的な責任を負うには、その行動を自由に行える状態でなくてはならない。例えば、目の前の湖におぼれている人がいるが、あなたは地面の杭に縛られていて身動きが取れないとしたら、おぼれている人を救助しなかったからといって、あなたが道徳的に非難されることはない。

同様に、あなたが何らかの方法で洗脳されて、ある犯罪を実施せよと命じられた場合も、あなたの自由を奪われていたのだから、罪を犯したことに対して責任はないと言って良いだろう。

科学の世界では、この世界は決定論に支配されているという立場を取ることが多い。つまり、この世界のこれまでの姿と、それを支配する物理法則を踏まえれば、実現しうる未来の姿は一通りしかないと考えるのである。

この考え方を、あなたの行動にも当てはめたらどうなるのだろう。あなたが何かしらの行動を取る直前の瞬間、この世界のこれまでの姿と宇宙の物理法則を踏まえれば、可能な結果はひとつしかない。だとすれば、未来の一瞬一瞬にあなたが何をするかは、物理的には今この瞬間にすでに決定されていることになる。

このような決定論は、道徳的責任を否定するものだろうか?
もしあなたが道徳的に悪い行動を取った場合、あなたは法廷の場で、物理的法則とこれまでの宇宙の歴史のせいで選択の余地がなかったと主張することはできるだろうか?

もしあなたが自由意思と決定論は両立しないと思っているのなら、決定論と道徳的責任のどちらか一方を否定しなくてはならない。もし決定論を否定したら、この世界には私たちのような自由な行為者によってもたらされる純粋な因果的非決定論が存在すると信じなければならない。

世界が今後どのような未来を歩むかは、自然法則によって決定されてはおらず、私たちが自分の行動によって決めていくことになる。一方、もし道徳的責任を否定したら、世界は決定論に従っており、ゆえに私たちに自由意思はないと考えなくてはならない。

ただし、私たちの行動はすべての因果関係によって決まっているが、それでも私たちは自由だと主張する者、つまり自由意思と決定論は両立すると考える両立論者がいるのも事実だ。