認識論

Brain Woman Pondering Silhouette  - chenspec / Pixabay

知識とは「正当化された真なる信念」だと定義される。

第一に、知識が信念であるとは、何かを知るためには、それが正しいと信じていなくてはならないという意味である。

第二に、知識が真でなくてはならないのは、偽であるものを本当に知ることはできないからだ。たとえ偽であることであっても、それを真だと信じることはできるし、それを知っていると信じることもできる。しかし哲学の定義に従えば、それは本当に知っているということにはならない。

第三に、真の知識が正当化されているというのは、その信念には理由がなくてはならないということである。例えば、あなたが1から1000までの数字の中から一つを選び、仮にそれを463だとしよう。友人が、それは463だと当てたとしたら、その友人は偶然正解したにすぎないのだから、そのことを知っていたとするのは間違いだと思われる。知識は偶然に得られるものではない。何らかの真なる信念を形成しても、その信念が知識と見なされるには、理由が必要なのである。

最近になって哲学者たちは、「正当化された真なる信念」がすべての知識と見なされるのかを議論している。例えば、次のようなケースを考えてみよう。あなたは今、どこかの地方をドライブ中で、外に目をやると納屋が見える。あなたは「あれは納屋だ」という信念を形成する。これは間違いなく正当化された信念だ。それに、真なる信念でもある。

ところが、今見たのは、実は本物の納屋ではない。あなたは知らないことだが、ここは偽納屋町といって住人の大半は納屋を建てない。建っているのは、外見だけが納屋のように見える建物だ。よってあなたは偽の納屋を見て偽なる信念を形成したのだから、それは知識ではないということになる。ゆえに、「正当化された真なる信念」がすべて知識だとは限らないのである。